相撲の殿堂・国技館は「横網(あみ)町」か「横綱(づな)町」か どちらに軍配?
相撲の殿堂・国技館の住所を「横綱町(よこづなちょう)」と認識する人は少なくない。「町名まで『横綱』とは、さすが日本相撲協会」などの声も聞こえる。
街区表示板(東京都墨田区)に「YOKOAMI」の文字
町内に住む人々など地元では「横綱町ではないよ。横網町(よこあみちょう)だよ」とキッパリ。新聞やテレビ番組などマスコミで多く取り上げられているのにもかかわらず「横綱町」という人は多く、「実は国技館は横綱町にある」との間違ったエピソードがあるかと思えば、「横綱町にすれば分かりやすい」などの声も出たことがあるらしい。
「新撰東京名所図会」には、現在の横網町あたりは江戸時代の1684(貞享元)年ごろには商家が確認でき集落があったことが読み取れる。「東京府誌 巻第六十八」では、江戸時代の貞享年間(1684~88年)には「南本所横網町」と称していたとの記述があるという。その後、1872(明治5)年に「本所横網町」、1911(明治44)年に「横網町」、1966(昭和41)年に現在の「横網1丁目・2丁目」となっている。
一方、相撲が公共社会事業の資金集めを目的に「勧進相撲興行」として回向院境内(えこういん)で行われたのは1768(明和5)年。春秋の2回興行が始まったのは、1833(天保4)年からで、回向院が興行場所として定着。隣接する敷地に1909(明治42)年に国技館(旧両国国技館)が完成するまで76年間続いていた。ちなみに現在の国技館は2代目で、東京都墨田区横網1丁目に移動してきたのは1985(昭和60)年1月場所から。旧両国貨物駅跡地を利用して建設された。
当初、「横綱(よこづな)」とは、「大関」の地位の力士の中から、紙垂をした純白の綱をつけられる者を「横綱」と呼んでいた。1791(寛政3)年ごろのことで、番付では大関が最高位だったが、関脇で横綱と呼ばれていた力士もいた。名誉的な称号の横綱が正式に番付に「横綱」として記されたのは1890(明治23)年5月場所からとなる。
古くから横網町の辺りではのりや漁業が行われており、これに使われる「網」から横網町の名前が付いたと推察されている。「横網町」と「横綱町」の住所表記の綱引きは「横網町」に軍配が上がる。